Lamont Coleman

日本にはうまく伝わっていないものの、アメリカのラップミュージックには暗喩や比喩や直喩を駆使してライバルのラッパーをからかったり仰々しいホラを吹いたり壮大な自慢話をする伝統があって、その構成は「セットアップ」と「パンチライン」と呼ばれ、これが日本のお笑い芸能で言うボケ(伏線)とツッコミ(オチ)と似ていて非常に面白い。中でもニューヨークのハーレム出身で、主に90年代後半のアンダーグラウンドシーンで名を馳せ、その後24オの若さで射殺されたBig Lというラッパーがいて、言葉に長けた彼のたたみかけるような即興スタイルが面白くて僕は大好きである。不適切な表現に満ち溢れているので詞を丸々引用するのは端折るが、「僕はツタンカーメンも驚くほどの純金に身を飾り」とか「僕のいないラップシーンなんてコメのない中国大陸のようなもの」という調子の痛快で楽しい表現が次から次へと出てくるので、いつの日か知られざるBig Lの文学的なアメリカ独自の現代即興詩を日本語に訳してみたいものだと僕は常々考えている。(Art: Banksy)

Xenochrony

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他人が作った曲から音を拝借するsamplingという録音技術は1930年代のアメリカのブルーズミュージシャンが一発録りした音源を別の音源と重ねて録音して曲の気に入らないパートを修正していた時代まで遡り、1940年代のアメリカやドイツで実験音楽の分野で応用され、当時は「音のコラージュ」として世間を賑わせた。現在はとりわけヒップホップのジャンルで幅広く使われている技術だが、前衛音楽家でロックギタリストでもあったフランク・ザッパは1960年代にこの技術を使ってxenochronyというレコーディングテクニックを考案した。要するにライヴ音源からリズムパートやギターソロを抜き取ってそれらをつなげて録音して新たなひとつの曲に仕上げるというものである。出回っている自身の海賊版のレコードから自分のギターソロなどを拝借して、自分のレコードの海賊版の更に海賊版を作るという不思議なこともザッパはやっていた。1980代に初めて僕はザッパがxenochronyという言葉をインタビューで使うのを聞いて、ザッパはあたかもそれを誰もが知っているべき当たり前の事のように言うので、さすがはザッパ、音楽に詳しいなぁと思っていたら何のことはないフランク・ザッパが創作した造語だったという訳である。

Universality

その生涯において、2000編以上の素晴らしく面白い知的なSF短編小説をものした作家の星新一は、言葉の普遍性について独自の見解を述べている。曰く、星新一は自分の小説を読者に受け入れやすくするためと、その作品を外国語に翻訳しやすくするため、そしていつの時代にも世界各地で普遍的に著作が読まれ続けるために、まず文から主観的な表現の極みである性的な描写や暴力的表現、感情を殊更に煽る表現などを一切合切排除した。すべての年代のすべての読者層に作品を受け入れられやすくするためである。そして更に、時事的な話題や固有名詞、特定の場所や思想、過激な描写や過剰な表現、こういうものも文から一掃した。星新一世界の登場人物がことごとくエヌ氏やエフ博士、エル夫人といった名前であるのもこのためである。そして、星新一の構築する独自の世界は無機的なのに独特の空気感もあって、文が美しいばかりでなく、短編小説としても、予想外の展開と読後に残る「奇妙な味」がとりわけ秀逸である。そして、星新一の作品は英語に訳しても違和感が全くない。僕はこういう星新一の考え方を自分の仕事上の訳文に時々応用していて、その結果上手くいくときは、訳文がすぐに風化したり廃れたりしない仕上がりとなるし、多分他の自作の訳文よりも普遍性があると思われる。もうひとつ星新一が言っていたのは、着想を得る方法についてである。それは、異質な人や物やアイデアを組み合わせて、そこから更なる発想を組み立てていく方式であるとエッセイで書いていて、なんとすごい作家なのだろうと僕は子供ながらに感服したものである。蛇足ながらつけ加えると、星新一は長編小説もかなり面白い。

R.e.s.p.e.c.t.

英語の「respect」に相当する日本語はない。「respect」は英語では多様な場面で使える便利な言葉だが、日本語には「敬意」や「尊敬」、「敬愛の念」などと訳されることが多いようだ。しかし「敬う」や「尊重する」のほうが訳として相応しいことも多いし、「respected」の場合は「信頼ある」や「人望が厚い」などの表現がより正確な場合もある。「畏敬の念」や「欽慕」、「尊ぶ」という重厚な言い方も日本語にはあるが、僕が通訳をしていた頃はこの単語を英語で聞くと、「日本人はリスペクトがありすぎて日本ではリスペクトするのが当たり前のことだから日本語にはリスペクトという言葉すらない云々」とよくお茶を濁していた。でも、これは一種のご愛嬌というか要するにお世辞である。(Art: Keith Haring)

Target Audience

僕にとって文を書くときに大事なことは、何をどう書くかだけでなく、誰に向かってその文を書くかということである。ターゲットにする相手によって、僕は文体も使う語句も変えているし、文を書く人は多かれ少なかれそういうことをやっているだろうと思われる。日本語においては、目上の人へ向ける敬語、そして個人的な手紙や社用の文における季節の挨拶といった取り決めが面倒だという人がいるけれど、僕はむしろそれによって過剰に本文を嘘や誇張で飾らなくて済むので、その分日本語のスタイルが合理的だと考えている。

Dialects

日本に住んでいた頃の僕は、高校生活の前半を過ごした関西エリアに行くときには当然のこととして関西弁で話すことになったが、神戸、西宮、大阪とで、多少言葉を使い分けていた。神戸でも阪神元町と阪急御影とでは使っている言葉が微妙に違うし、尼崎にも独自の土着的表現がある。関西では「そうやねん」と「せやねん」を場所によって使い分けている人が多いとも感じる。東京では、地元の言葉に加えて東北地方の方言が多く混ざっているし、その東北地方には東南アジアやアフリカ、中南米出身の労働者も数多くいて、こういうグループも面白い表現や造語の宝庫である。僕が長年住んでいた広島市にも、都会的でクールな言葉や、途方もなく田舎臭い表現があるが、僕はシティーボーイじゃけいつも標準語で話しちょる。(Art: Andy Warhol)